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- コミュニケーション能力の育成のための「CAN-DOリスト」の形での学習到達目標の設定
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~情報、考え、気持ちを伝え合う言語活動を~
太田 光春(おおた みつはる)
文部科学省初等中等教育局視学官
平成23年6月に「外国語能力の向上に関する検討会」がとりまとめた「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」を受け、現在全国の各教育委員会および各中学、高等学校で「CAN-DOリスト」の形で学習到達目標を設定する取組がなされています。そこで、「CAN-DOリスト」設定の狙いや実施するうえでの心構えについて、文部科学省初等中等教育局視学官の太田光春氏にお聞きしました。
「CAN-DO リスト」設定の狙い
Q. はじめに、「CAN-DO リスト」の形で学習到達目標を設定することの意義や狙いについてお話しください。
A. 平成23年6月に「外国語能力の向上に関する検討会」がとりまとめた「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」において、学習指導要領に基づき、各中・高等学校が生徒に求められる英語力を達成するための目標(学習到達目標)を「言語を用いて何ができるか」という観点から、「CAN-DO リスト」の形で具体的に設定することについて提言がなされました。
「CAN-DO リスト」の形で学習到達目標を設定する目的としては、次の3点が挙げられています。
① 学習指導要領に基づき、外国語科の観点別学習状況の評価における「外国語表現の能力」と「外国語理解の能力」について、生徒が身に付ける能力を各学校が明確化し、主に教員が生徒の指導と評価の改善に活用すること
② 学習指導要領を踏まえた、「聞くこと」、「話すこと」、「読むこと」及び「書くこと」の4技能を総合的に育成し、外国語によるコミュニケーション能力、相手の文化的、社会的背景を踏まえた上で自らの考えを適切に伝える能力並びに思考力・判断力・表現力を養う指導につなげること
③ 生涯学習の観点から、教員が生徒と目標を共有することにより、言語習得に必要な自律的学習者として主体的に学習する態度・姿勢を生徒が身に付けること
この提言を受けて文部科学省では平成24年7月、「外国語教育における『CAN-DOリスト』の形での学習到達目標設定に関する検討会議」を設置し、検討を重ね、その結果を「各中・高等学校の外国語教育における『CAN-DO リスト』の形での学習到達目標設定のための手引き」として取りまとめ、平成25年3月に公表しました。この「手引き」は、「CAN-DO リスト」の形で学習到達目標を設定し、活用するにあたって参考にしてもらうために作成したものです。ぜひ活用してください。
学習到達目標を生徒と共有する
Q. ということは、「CAN-DOリスト」設定という課題が唐突に出てきたということではないのですね。
A. その通りです。まず、最初にはっきりさせておかなくてはいけないのは、外国語科の目標は「コミュニケーション能力の育成」だということです。このコミュニケーション能力とは、当然、4技能を基盤にしています。具体的には、「話すこと」では、一方的に話すプロダクションの能力に加え、インタラクションの能力、すなわち、人とのかかわりの中で言葉を使う能力も育成する必要があります。つまり、聞き手や読み手に配慮して言葉を使うことができるようにしなければならない、ということです。皆さんは学習指導要領が大きく変わったとおっしゃりますが、前の指導要領と今回改訂した指導要領の基本的スタンスは変わっていません。あくまで「コミュニケーション能力の育成」なんです。 そして、この外国語科のコミュニケーション能力の育成という目標は、小、中、高、で一貫しています。
現場の先生の中には、教科書を最初の1ページから最後まで教えたら、何かを教えたことになる、責任を果たしたことになる、と勘違いをしている人も見受けられます。生徒たちにとって、おそらく定期考査を除いて人生で二度と読まないであろう英語の文章を、隅から隅まで日本語に置き換え、文構造を分析的に理解することにどのような意味があるのでしょうか。それで本当に英語によるコミュニケーション能力が身に付けられるのでしょうか。答えはNOです。
文部科学省は、「教科書を教えるのではなくて、教科書で教える」ことを強調しています。そのためには、どのような力を身に付けさせたいかを明らかにし、それが生徒と共有されていなければなりません。それが「CAN-DOリスト」という形の学習到達目標なのです。
授業において先生は、いわば大型バスの運転手で、生徒は乗客なのです。運転手が目的地、ゴールを知らなかったらどうなるでしょうか。乗客は、どこに連れて行かれるのかもわからないし、どこで休憩していいのか、どこで食事を摂るのか、いつトイレが利用できるのかもわからない。運転手と乗客がゴールを共有する。それが、「CAN-DOリスト」の形で学習到達目標を設定することの目的です。
この目標は、当然、主たる教材である教科書の内容を十分検討した上で、担当者間の合意のもとに設定されなければなりません。教師には、この目標を達成させるために、教科書の内容をよく吟味し、どのような力をつけさせることに適した内容かを判断し、その上で生徒達の興味関心を引くような言語活動を工夫することが求められます。料理に例えれば、教師は、それ自体が美味しいものもあれば美味しくないものもある様々な食材(教科書のコンテンツ)をうまく調理して美味しい料理(生徒が取り組みたくなるような言語活動)を創るシェフなのです。
コミュニケーション能力を如何に測るか
Q. 設定した学習到達目標を、どのように評価すればよいのでしょうか。
A. 評価では、常に妥当性と信頼性(Validity & Reliability)が問われます。当然ですが、ペーパー&ペンシルテストだけでコミュニケーション能力を評価することは不可能です。妥当性が全く担保されません。
わかりやすく言うと、学習者にとって、学校は病院と同じです。
「患者」である生徒たちの学びが改善の方向に向かう治療や投薬(指導や助言)ができなかったら、学校は失格です。
コミュニケーション能力の育成を目指す外国語科の評価がペーパー&ペンシルテストだけでよいはずがありません。身体が健康かどうかを判断するのに、手のひらしか見ていないようなものだということです。妥当性がないのです。妥当性のない評価によって得られた結果をフィードバックすることほど罪なことはありません。なぜなら患者さん(学習者)は、誤った情報をもとにその後の生活(学習)をしていくことになるからです。
各学校は、必要に応じて様々な試験等を活用しながら、コミュニケーション能力を的確に診断する「人間ドック」のような評価を実施する必要があります。具体的には、コミュニケーション能力を測るためには、即興で話すことを含めたスピーキング(プロダクション)などのパフォーマンス評価、まとまりのある内容の文章を書かせること(エッセイ)による評価、英語による面接(インタラクション)などをする必要があります。
たとえ包丁の各部の名称について熟知していて、魚の三枚おろしやキャベツの千切り、大根の桂剥きについて詳しく説明できても、包丁を握ったことのない人は、実際には魚を三枚におろすことはできません。包丁は皮を剥いたり、切ったりする道具なので、その目的で包丁を使う経験をしない限りうまく使えるようにはならないのです。英語も同様です。英語はコミュニケーションの道具ですから、コミュニケーションの道具として使い慣れないかぎり、使えるようにはなりません。どんなにたくさんの単語の意味を日本語で言えても、文法をどんなに理路整然と説明できても、それらを実際のコミュニケーションで使わない限り、役には立たないのです。入試に特化した英語教育の落とし穴がここにあります。テストでどんなに良い点をとることができても、コミュニケーションの手段として英語を使ったことがなければ、いざという時に役に立たせることはできません。単語のテストや文法のテストをたくさんしても、生徒がそれらの準備に費やす膨大な時間や労力の割にたいした成果が期待できないのです。学習者に優しい指導とはならないのです。一部に、学習指導要領は文法を軽視しているという誤解があるようですが、実際は、真逆です。「文法については、コミュニケーションを支えるものであることを踏まえ、言語活動と効果的に関連付けて指導すること」や「コミュニケーションを行うために必要となる語句や文構造、文法事項などの取扱いについては、用語や用法の区別などの指導が中心とならないよう配慮し、実際に活用できるように指導すること」とし、むしろ文法を重視しています。
教育委員会の主体性がカギ
Q. 教育現場での進捗状況はいかがでしょうか。
A. 県や学校を実名で挙げることは差し控えますが、変わるところは大きく変わっています。
やはり、教育委員会の姿勢次第といっても過言ではありません。教育委員会が学習指導要領の周知徹底に本気で取り組んでいるところは、英語教育が劇的に変化しています。高校一年生だけでなく他学年においても「授業は英語で行うことを基本とする」ことを浸透させている県もいくつか現れています。
一方、残念ながら、学習指導要領ではなく受験でしょう、と考えているところはあまり変わっていないようです。同じ高校生活で、英語の時間が待ち遠しい生徒と必ずしもそう思えない生徒がいて良いはずがありません。我が子なら、あるいは、自分が生徒なら、コミュニケーション能力を育成してくれる学校と受験対策と称して役に立たない暗記を強いる学校とどちらに行かせたいでしょうか。あるいは、行きたいでしょうか。
ある都道府県では中高の指導主事がペアとなって、3年間で六百数十人の授業参観をし、指導・助言を行ったそうです。指導が行き届いているので、この県では劇的な授業改善が起きています。また、ある都道府県では、いくつかの高校が連携して、英語表現Ⅰの授業で、副教材として海外の教材(日本では大学のテキストとして使われている)を使っているところもあるようです。当然のことながら授業は英語で行い、指導を「話すこと」と「書くこと」の能力の育成に焦点を合わせ、文法を扱うことは最小限にとどめています。こうした教育を受けた生徒たちが、これから大学に入学するわけですから、そのことを踏まえた大学の英語教育の質の改善も図られていく必要があります。
たくさんの学校を抱える東京都でも、大きな動きが出てきています。
東京都教育委員会は、平成24年2月に「都立高校改革推進計画・第一次実施計画」を発表し、グローバル人材の育成を目標の一つとして、英語教育の推進に取り組んでいます。今年度は、東京都独自の英語教育改革を推進し充実を図るため、英語専門家や企業の人事担当者をはじめとする外部有識者及び教育庁関係者を委員とする「東京都英語教育戦略会議」を設置し、公立小中学校等を含め全都立高校における具体的方策の検討を始めたところで、その成果に期待しているところです。
新しい学習指導要領の実施に併せて、現場の指導に様々な変化が起きています。たとえば実態として、これまでは、学年が上がるに従って扱う副教材が受験を意識した学習参考書や問題集にシフトしていくことが多かったのですが、コミュニケーション能力を育成するという学習指導要領の趣旨を踏まえた指導に先進的に取り組んでいた学校の多くが入試でも好結果を得られたことから、学習参考書に目を向けるのではなく、オーセンティックな英語、たとえば英語のペーパーバックであるとか、ニュースや映画など、あるいは海外の英語学習用教材などに目を向けて、それらを教材として使い始めています。国内の入試を意識した学習参考書ではなく世界標準の英語に目を向けているのです。10メートル四方のプールを隅から隅まで泳がせる指導でなく、川や海でたっぷり泳ぐ指導に切り替えているのです。生徒の学習が「疑似」から「本物」に移行しつつあります。彼らは、川の流れの速さや海の深さを知っています。
入試英語も変わらざるを得ない
Q. 大学入試があるために「CAN-DO リスト」の設定は無理、という声が一部にあります。
A. 学校現場では、正解が一つのことに対する指導(主に受験対策に起因)にあまりにも偏っていたので、英語に関しても、知っているか、知らないかに焦点を合わせ、使えるか、使えないかをあまり重要視してきませんでした。だから、使える英語が身につけられなかったのです。
この歪みやミスマッチを是正していかないと、大学には合格したけれど英語は使えない、とか、大学に合格したのだから英語の学習は止める、という日本人を産出し続けてしまいます。高校や中学の現場が、入試があるから変われないと言うのであれば、これを、抜本的に変える必要があります。現在、入試のあり方等については中教審で議論されています。また、政府の教育再生実行会議でも議論されています。
もし、教育再生実行会議の第三次提言にあるように、大学入試における英語の試験にTOEFL等の外部検定試験が活用されるようになったら、従来型の指導をしている高校は、英語がネックになって、生徒が希望の大学に行けなくなります。英語の能力は4技能でとらえる、というのが今の流れです。進学を目指しているのであれば、なおさら、コミュニケーション能力の育成に向かわなければなりません。
Q. 文部科学省が推進している「CAN-DOリスト」とはどのような性格のものでしょうか。
A. 今回、間違ってはいけないのは、文科省が打ち出している「CAN-DOリスト」はCEFR(Common European Framework of Reference for Languagesの略称。ヨーロッパ言語共通参照枠)のようなベンチマークというか、尺度ではありません。あなたはA1です、あなたはB1です、あなたはC2ですね、という具合に自分の英語力がどのあたりにあるかを知らせるためのものではありません。拠点校等の各学校に求めているのは、使っている教材、生徒の学習の状況、指導に割くことのできる時間数等を踏まえて、各学校の実情にあった学習到達目標をCAN-DOリストという形で作成することです。3年間で15単位ある学校と、3年間で8単位しかない学校では、当然異なったものになります。喜ばしいことに、すでに、すべての高校にこの作成を求めている県もいくつかあります。
情報、考え、気持ちを伝え合う言語活動
Q. 授業が成功しているかどうかは、何をもって判断すればよいのでしょうか。
A. 生徒が言語活動を通してコミュニケーションの成功体験をしているかどうかです。
学習の主体が生徒になっているかどうかです。全国から様々な報告がありますが、ある県では「授業を英語で行うことを基本とする」ではなく「生徒が使う英語の質をいかに高めるか」が先生方の大きな関心事になっているようです。
生徒に行わせたい言語活動は、情報や考え、気持ちなどを伝え合う言語活動です。
もちろん、学習の過程でディクテーションやシャドーイングなど、学習的な要素が強い活動も必要でしょう。ですが、本当に大切なのは、生徒が自分の立場で、自分の言葉で伝え合うことです。ですから、授業の中心は、教科書を読んで得た情報を伝え合ったり、読んだ内容について、私はこう考える、この筆者の考え方には賛同できない、とか、この主人公の生き方は納得できない、私だったら、こう生きる、と意見を述べたり、自分の気持ちを述べたりするなど、自分の立場で、自分の言葉で伝え合う言語活動でなければなりません。
先生ではなく生徒がどれだけ英語を使っているかが重要です。「授業は英語で行うことを基本とする」というと、いままで日本語で行っていたところを英語に置き換えて、Open your textbook. とか、Listen to the CD. Repeat after it. などと、先生が一方的に英語で指示をしたり、説明したりすればよいと誤解をしている教師もいるようです。これでは、生徒は学べません。繰り返しになりますが、今回の学習指導要領は、情報や考え、気持ちを伝え合う言語活動を授業の中心とする抜本的な授業改善を求めています。
また教師には、自律した学習者として、一人の学習者として、学び続ける姿を生徒に見せていただきたいと考えます。教師は、生徒の身近なロール・モデルだからです。当然、自分の成功体験に基づいて学習方法も教える必要があります。裏返して言えば、うまくいかなかった学習方法、あまり効果のなかった学習方法を生徒に強いてはいけないのです。
教育は、学習者の学びの可能性を信じることを前提とした営みです。学びの早い人、遅い人はいるでしょうが、学べない人はいない。誰もが学べる、ということを強く信じる。その気持ちが伝わる授業をすることが教師には求められます。教師が英語が大好きだと思う気持ちが伝わることも重要です。今回の、「授業は英語で行うことを基本とする」という考え方は、学習者としての教師や生徒の学びの可能性を信じているからこそ学習指導要領に記述することができたわけです。
日本人の知的レベルはとても高いと思います。英語科教師のポテンシャルもとても高いと信じています。先生方は英語で授業をすることに慣れていないだけです。生徒のために、生徒の理解の程度に応じた英語をたくさん使うことを心がけて授業をし続ければ、すぐに英語で行うことを基本とする授業に慣れると思います。違和感があるのは最初のうちだけです。利き手でない手で歯磨きをすると最初のうちは違和感がありますが、しばらくすると自然にできるようになります。
「授業は英語で行うことを基本とする」ことを求める学習指導要領も「CAN-DOリスト」の作成も、学習者に優しい英語教育の実現、時間や労力の報われる英語教育の実現のために必要不可欠なことなのです。
(文責:編集部)
(2013年9月掲載)